ヨハネ4章

4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、

4:2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──

4:3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。

 イエス様がユダヤを去った理由は、パリサイ人たちの思いを知られたからです。彼らは、主イエス様がヨハネよりも多くの弟子たちをつくっていることを、知ったのです。主は、それを知られて立ち去られました。彼らの関心は、人の誉れです。多くの弟子を持つなら、それを妬むのです。

4:4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。

4:5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。

 主がサマリヤを通られた理由について、経路上止むを得ないことであることが示されています。本来ならば、イスラエルに遣わされた方として、イスラエル以外の所へは行かないのですが、そこを通ったのは、ユダヤからガリラヤを結ぶ街道筋にあったからです。それで、スカルというサマリヤの町に来られました。

4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。

 ヤコブの井戸が千七百年以上経ってもまだ生きていました。イエス様は、その井戸のかたわらに疲れて腰を下ろしておられました。ユダヤから直線で五十キロメータぐらいあります。そこを歩いてこられたのですから、疲れます。時は、昼の十二時ごろでした。

4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。

4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。

 ユダヤ人の男がこのように声をかけることは、普通にはない出来事です。

4:9 そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。

 その状況について説明されています。ユダヤ人とサマリヤ人は、付き合いをしなかったのです。しかも、彼女の言い表しのように、サマリヤの「女」である者に、男が水を求めることも普通ではありませんでした。男であるなら、自分で調達したらよいのです。しかし、女からその水を求めたことは、女の前に自分を低くすることでした。このようにすることで、女の心を開きました。

 イエス様がユダヤ人であることは、この女に分かりました。ユダヤ人は、サマリヤ人を忌み嫌っていました。付き合いをしなかったのです。そのような人にきちんと話を聞いていただくためには、相手が心を開いてくれないとできないことです。

 イエス様は、自分から頭を下げてお願いすることで、彼女の心を開いたのです。彼女は、無視することなく、嫌うこともなく、イエス様に問いかけています。ユダヤ人が、サマリヤ人で、また、女である者に対してお願いをすることは、考えられないことでした。彼女は、「どうして」と聞きましたが、なにか特別な理由があるに違いないと思ったのです。

4:10 イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

 イエス様は、まず、神の賜物の話をしました。神からの賜物というこの上ない良いものについてまず示されたのです。彼女には、それをそのまま聞く心がありました。彼女は、霊的なことに無関心な人ではありませんでした。礼拝についてイエス様に質問し、メシヤの到来についても考えていました。神からの賜物は、彼女の心を惹くものでした。

 そして、イエス様が誰であるかを知るならば、彼女の方から求めると言われます。彼女の前に現れた方は、それを与えることができる方であることを示しました。イエス様は、それを与えることができる方です。 

 そして、イエス様が、ご自分を誰だか知っていたならば、「あなたの方から求めていたでしょう。」と言われた時、神が与えようしているものが彼女が欲しくてたまらないものであることを示しました。

 そして、神からの賜物は、「生ける水」であると示されました。 

4:11 その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。

4:12 あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」

 彼女は、強い関心を抱いていることがわかります。イエス様の言われることを真剣に考えました。神が実在すること、そして、そのようものを与えることができる方であることを認めて、初めて真剣に聞くことができる言葉です。彼女は、真剣でした。

 まず、「主よ。」と言い表しています。神からの賜物を与えることができる方は、主と呼ぶに値する方です。そのことは、彼女がイエス様を「私たちの父」と言い表すヤコブと比較していることからも、イエス様を敬意をもって見ており、その語る内容の偉大さに強い関心を抱いています。

 しかし、彼女は、その「生ける水」が肉体の渇きを癒し、命をつなぐ物理的な水と考えました。ですから、千七百年にわたって人々の命をつないだ井戸をもたらしたヤコブと比較しているのです。

4:13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。

 「この水」は、井戸の水を指しています。それとともに、人がこに世で手に入れる自分を満たすものについても教えています。

4:14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

 イエス様の語られたことは、比喩になっています。その詳細は、後で語られますが、イエス様が与える水を飲むことは、イエス様を信じることです。また、水は、神の言葉の比喩になっていますが、神の言葉を受け入れ信じることを表しています。イエス様を信じるのです。イエス様がキリストであり、神であると信じるのです。

 その人のうちで泉となるというのは、聖霊が与えられ、聖霊によって生きるようになることを表しています。それは、単に永遠の滅びに落ちないことだけではありません。生涯の間、聖霊によって歩むのです。聖霊による歩みは、神の御心に適う歩みをし、実を結ぶのです。その事自体が命です。それはまた、永遠の命としての報いをもたらします。

4:15 彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

 彼女は、強く求めました。彼女は、イエス様の言葉を信じたのです。しかし、彼女は、「汲みに来なくても良いように」と言っています。彼女は、その人のうちで泉となるという奇跡の出来事は受け入れましたが、その水については、肉体の渇きを癒す物理的な水という考えからは、離れることができませんでした。

4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」

 イエス様は、彼女の渇きは、心の渇きであることを示すために、彼女が何に渇いているかを明らかにするために話を変えました。

4:17 彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。

4:18 あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」

 彼女は、イエス様の言われたことに素直に答えることができませんでした。彼女が一番触れて欲しくなかったことです。しかし、そのことに触れることで、彼女が自分を満たそうとしたが渇いていることを明らかにしました。彼女は、身近な人の愛によって人生の幸いを得られると考えたのです。彼女は、幸せな結婚を夢見たのです。しかし、夫を五人変えても実現しませんでした。彼女は、イエス様が言われた「この水を飲む物はまた渇きます。」とのことばを自分の実体験として経験済みなのです。

4:19 彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。

 彼女は、イエス様が自分のことを皆知っていることから、イエス様のことを預言者と言い表しました。イエス様が神からの賜物として話されたことは、この世で得られる何かではないことも夫の話から分かったのです。どんなに自分にとって良いものと思って追求しても、結局は満たされず渇くのです。

 彼女がイエス様を預言者と言い表すことで、イエス様が与えようとしているものは、この世のものでない霊的な祝福であることを理解したのです。それは、神からの祝福であり、永遠の祝福をもたらすのです。聖書で預言者が語ってきたことは、そのことです。神にある祝福です。

4:20 私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」

 彼女は、神からの祝福を獲得するために必要なこともわきまえていました。それを要約した言葉が「礼拝」です。礼拝は、神を崇め、神に栄光を帰すことです。彼女は、極めて頭の回転の速い人です。

 彼女は、その礼拝が神に受け入れられるものでなければならないことも、わきまえていました。ですから、礼拝する場所について、ユダヤ人とサマリヤ人の見解の違いについて聞きました。

4:21 イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。

4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

 場所に関して言えば、旧約聖書には、明確にその場所が指定されています。サマリヤ人が礼拝している山は、ゲリジム山とエバル山のうちゲリジム山と考えられます。スカルは、その中間にあり、井戸は、スカルの町から一キロメートルほど離れてゲリジム山に近い方にあります。しかし、その山については、確かにその山から民を祝福しましたが、礼拝の場所ではありません。救いがユダヤ人から出ることも聖書に書かれていることです。しかし、サマリヤ人は、礼拝の場所も、救いがどこからくるからも知っていませんでした。

 イエス様は、「救い」という言葉を使われて、それが、やがてもたらされることを証ししました。その時、永遠の祝福がもたらされるのです。その祝福と、礼拝が関連づけられていて、彼女が神の祝福と、礼拝を関連付けたことは正しかったのです。

4:23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。

4:24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」

「御霊によって」→霊によって。定冠詞がついていない。「霊」で礼拝することは、父が霊であるからとその理由が示されています。

 本当の礼拝者たちが、霊と真理によって父を礼拝するときが、今であることを示されました。それは、肉体による人の形式によるものではなく、神の言葉を受け入れた霊によるのです。真は、「真理」とも訳され、神の御心を行うことです。そのように、神の言葉を受け入れ、その御心を行うことが真の礼拝です。神を崇め、神に栄光を帰すことであるのです。父は、そのような人を求めておられるのです。

 ですから、礼拝の場所や、形式によりません。礼拝者がユダヤ人であるかサマリヤ人であるか関わりないのです。霊なのです。本当の礼拝者は、父の御心を行って父を崇める者であるのです。形だけの礼拝で、本当は、父の御心から外れ、父を崇めないような者を求めてはいないのです。

 ですから、このサマリヤの女も救いに与る望みがあることを明確に示されたのです。

4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」

 彼女の霊的知識は、さらに深いことがわかります。真の礼拝がなされるときは、キリストがおいでになられるときであると言いました。そのとき、全てのことが明らかにされて、人が神の御心のままに歩み、神に栄光を帰すときが来ると言ったのです。そのことは、預言に記されています。キリストが治めるときには、人々に聖霊が注がれ、皆神を知り、神の御心ままに歩むようになるのです。

 ギリシア語でキリストと呼ばれるメシヤ(ヘブル語)は、どちらも油注がれた者を意味します。

4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

 イエス様は、ここで、私がキリストですと言ったわけではありません。「あなたと話している(者は)『わたしはある。』です。」と言っているのです。「存在者」は、永遠に存在する者としての神様の本質を表す言葉なのです。言い換えるならば、私は神ですと言っています。

 彼女が抱いているキリストのイメージは、必ずしも正しいとは限りません。例えば、人々は、人となっておいでになられたキリストをなかなか理解できませんでした。イエス様は、彼女の言葉をおうむ返しでそのまま答えたのではなく、わざわざご自分が永遠の存在者神であると特別な言い方をされて証しされたのです。もし、ユダヤ人の前でこの言い方をしたら、彼らは、イエス様を石打にしようとしたでしょう。神が人となられることを理解できないからです。イエス様は、この女の方にはっきりとした、間違いない証しをされたのです。彼女が救われるためには、イエス様が神であると信じる必要があったのです。

・「わたしがそれです。」→わたしはある。

4:27 そのとき、弟子たちが戻って来て、イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いた。だが、「何をお求めですか」「なぜ彼女と話しておられるのですか」と言う人はだれもいなかった。

4:28 彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。

4:29 「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」

4:30 そこで、人々は町を出て、イエスのもとにやって来た。

 彼女のサマリヤ人への証言は、控えめです。彼女は、町の人に疎まれていることを知っていました。彼女の言葉は、信用がないのです。それでも彼女が町の人にこのように話したのですが、彼女のうちでは、この方は、キリストに間違いなかったのです。

 そして、「この方がキリストなのでしょうか。」と問いかけることで、彼女の判断ではなく、自分でキリストかどうか確かめてくださいと求めたのです。

 また、人々に何としても知ってもらうために、「来て見てください。」と言いました。嘘か本当か、自分の目で見てくださいと。

 このように話せば、人々は聞いてくれるのです。自分で確かめたいと思うのです。そして、彼女がそのように語る証拠も示したのです。彼女は、わずかな言葉で、人々に訴えることができる人でした。非常に知恵があります。

 そこで、人々は、町を出てイエス様のもとに来たのです。暑いから後にしようとは言いませんでした。是非確かめたいと思って出て来たのです。

4:31 その間、弟子たちはイエスに「先生、食事をしてください」と勧めていた。

4:32 ところが、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」

4:33 そこで、弟子たちは互いに言った。「だれかが食べる物を持って来たのだろうか。」

 弟子たちは、まだイエス様の食べる物について理解していませんでした。このとき、父の御心として一人の女から初めてサマリヤ人に福音を伝えることが食物であり、それによって満たされていたのです。父と一つであるといういのちを経験していました。

・「食べる」→動詞。

4:34 イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。

 イエス様の食べ物は、次のように語られたことと関係があります。これは、食物によって満たされるとか、力が与えられるというような意味で語られたのではありません。信者の歩みの模範としてのイエス様の生き方を示された言葉なのです。

ヨハネ

6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。

6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。

6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

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 信者に関しては、真の食べ物また飲み物とは、イエス様の内にとどまること、そして、そのような人のうちにイエス様がとどまることです。その人の内でイエス様が御業をなされるのです。その人は、よみがえらされ永遠の栄光を受けます。イエス様に関しては、食べ物は、父の御心を行い成し遂げることです。それは、父にとどまり、父によって生きている歩みなのです。イエス様のうちにあって、父が御業をなさるのです。

 よみがえらされることは、単に肉体がよみがえることだけを言っているのではありません。よみがえりは、聖霊による歩みを指していて、肉体のよみがえりは肉がない完全なものとなることを表しています。体がよみがえらされた時、その歩みに応じて栄光が与えられるのです。パウロは、それを追求していて、なんとかして死者の復活に達したいと願いました。私たち信仰者も求めているものです。そして体のよみがえる時、報いとして栄光を与えられるのです。

4:35 あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。

4:36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。

 同じように父の御心を行うことに対して報いが備えられていることを示されました。畑の刈り入れの例えをされたのです。

 ここで、刈る者が報酬を受けます。それは、永遠の命に至る実です。ですから、畑の実は、例えば伝道の実など救われた信者のことではありません。その人自身が神からの報いを受けるにふさわしい実(行い)です。その報いを受けることを永遠の命に至ると表現しています。

 それは、蒔く者にとって喜びです。蒔く者は、三位一体の神です。実を結ばせるために働かれるのは、神です。信者が実を結ぶのは、聖霊によることであり、その人のうちにあって働かれるイエス様です。父は、全能の力でそのために働かれます。

 エペソ書には、神の働きが示されていて、その人の内に住まわれるイエス様の働きが示されています。イエス様がその人の内で働かれることを信仰によって信じ、イエス様が働かれることに委ねる人が実を結ぶことができるのです。そのようにして、信者を通して実を結ばせることが神の喜びなのです。イエス様の働きは、主イエス様の栄光となり、それを図りなさった父の栄光となるのです。

 刈る者は、信者です。信者も報いが頂けるので喜ぶのです。

4:37 ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。

 冒頭に理由を示す接続詞があります。蒔く者は、神であり、刈り取るのは、弟子たちです。

 蒔く者は、一人です。刈り取る者も単数です。

4:38 わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」

 彼らが刈り取る実は、彼らが労苦しないものです。信者が結ぶ実は、人の労苦によらないのです。肉の努力によりません。信仰に応えて、神が働かれ、実を結ばせるのです。

 これは、弟子たちを伝道のために遣わした話ではありません。伝道であるならば、弟子たちが労苦して福音を伝えるのです。

4:39 さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。

 多くのサマリヤ人がイエス様を信じました。女の証言を信じたからです。彼らは、自分たちの目で確かめて信じたのです。

4:40 それで、サマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在された。

4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。

4:42 彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」

 サマリヤ人たちは、さらにイエス様について知りたいと思い、滞在してくださることを願いました。イエス様は、彼らに語ったのです。彼らは、イエス様の言葉によって信じたのです。これは、最も幸いなことです。

 その結果、彼らはイエス様についてさらに深く知り、強い確信を持ちました。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。

4:43 さて、二日後に、イエスはそこを去ってガリラヤに行かれた。

4:44 イエスご自身、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言なさっていた。

 イエス様は、ガリラヤへ行かれました。故郷は、ナザレでガリラヤの南部ですが、そこには行かないで、それ以外のガリラヤに行かれたのです。それは、ナザレの人たちは、イエス様を尊ぶことがなかったからです。そのようなことは、かつての預言者が経験したことなのです。

 イエス様を尊ぶことがなければ、その言葉を真剣に受け止めることはないのです。疑いを抱きつつ聞いていても、決して身に付くことはありません。また、疑いを抱かなくても、語られることを理解し、自分のものにしようという心がなければ、聞き流すだけです。

 講習会で話を聞いただけですと、記憶に残るのは、20%と言われています。メモを取り、復習することで、その割合は格段に向上します。学生さんであれば、さらに自分で反復練習することで、身に付くことは経験済みと思います。聖書の言葉は、最も大切なものです。しかし、その価値を誰が知っているでしょうか。御言葉の教える通りに身に付けている人がどれだけいるでしょうか。

4:45 それで、ガリラヤに入られたとき、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎したが、それは、イエスが祭りの間にエルサレムで行ったことを、すべて見ていたからであった。彼らもその祭りに行っていたのである。

 ガリラヤの人たちは、イエス様を歓迎しました。それは、イエス様が祭りの間エルサレムで行われたしるしを見ていたからです。彼らは、イエス様が神から遣わされた、奇跡を行うことができる力ある方と見ていました。彼らには、神の教えを受け入れる素地がありました。

ヨハネ

2:23 過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。

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 祭りの間、多くの人々がイエス様の名を信じました。それは、しるしを見たからです。名を信じたというのは、次節以降の内容から、その人々は、イエス様を心底神の御子と信じたわけではないことがわかります。その名とは、イエス様が力ある業をなすことができる方という名です。彼らは、イエス様を見て、神の子と信じ、自分の生き方を方向転換することをするまでにはなっていません。力ある方が現れたことは認めても、イエス様が神の御子であるという信仰には至っていませんでした。

 ただし、イエス様を尊ぶことのないナザレ人のようではなかったのです。

4:46 イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。イエスが水をぶどう酒にされた場所である。さてカペナウムに、ある王室の役人がいて、その息子が病気であった。

4:47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところに行った。そして、下って来て息子を癒やしてくださるように願った。息子が死にかかっていたのである。

20km、標高差400m

 彼は、非常に努力してイエス様を訪ねたのです。息子が死ぬことがないように癒してくださることを願いました。

 彼は、イエス様が遥々下って来て、癒してくださることを願いました。それが必要だと考えていたからです。

4:48 イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」

 イエス様は、彼を含めて、あなた方て言われる人々が、しるしを見ない限り決して信じないと言われました。イエス様は、ガリラヤの人々も含めて言っておられるのです。

 求められている信仰は、神の言葉をそのまま信じるところにあるのです。

4:49 王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」

 この役人は、自分自身の信仰について省みました。イエス様のおっしゃるとおりの者ではないかと。本当にイエス様が癒すことができることを信じているのかと。もしかしたら治るかもしれないと思っているのであり、半ば諦めているのではないかと。

 しかし、この役人は、息子が死ぬことは、なんとしてでも避けたいところです。彼は、自分の不信仰を捨て、主を信じ、死なないうちに下って来てくださいと願ったのです。

 信じなければもしかしたら息子は死ぬのです。不信仰のままで諦めることなどできないのです。このように、私たちは、信仰による救いを是非とも必要なものと考えない限り、それを自分のものとしようとはしません。地獄の滅びからの救い、そして、永遠の御国で受ける栄光が自分とってなくてはならない必要なもの、また、心惹くものでない限り、それを求める心は弱く、イエス様を救い主と信じる信仰も生まれてこないのです。

4:50 イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。

 イエス様は、彼の信仰にそのまま応えることはしませんでした。役人は、「下って来てください。」と願いましたが、「行きなさい。」と言われ、一緒には行かれませんでした。彼は、さらに試されたのです。イエス様の言葉だけを信じる信仰が求められたのです。それは、初めにイエス様が語られたとおりです。また、イエス様は、その人がそれだけの信仰を持つことを期待したのです。

 その人は、イエス様が「語った言葉」を信じて、帰って行きました。言葉だけを信じて行動する信仰を持ったのです。

4:51 彼が下って行く途中、しもべたちが彼を迎えに来て、彼の息子が治ったことを告げた。

4:52 子どもが良くなった時刻を尋ねると、彼らは「昨日の第七の時に熱がひきました」と言った。

4:53 父親は、その時刻が、「あなたの息子は治る」とイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた。

 彼は、下って行く途中で息子が治ったことを知りました。イエス様が語られた通りになったことを知ったのです。彼は、イエス様が治されたと信じました。家族も信じたのです。遠く離れていても、治すことができる方であることを知り、信じました。

4:54 イエスはユダヤを去ってガリラヤに来てから、これを第二のしるしとして行われた。

 この軌跡は、第二のしるしとして行われました。イエス様が神であることを明らかにするためのものでした。